第一話 ETINと共に ※この物語はフィクションです。 これまで人間は生態系の頂点に君臨していた。 いや、自ら君臨していると思い込んでいただけだった。 しかし、他の生物の中にはその頂点の座に肖(あやか)ろうとしている種がいた。 人間達には姿も見せずに、ゆっくりとゆっくりと―――。 『今日の正午、滋賀県の養護老人施設で集団食中毒と見られる事件が起こりました。調べによりますと、施設で朝食を摂った職員含む男女35名が腹痛と吐気を訴え、全員近くの病院に搬送されました。』 『次のニュースです。先週23日に起きた養護老人施設集団食中毒事件の最後の入院者である、田村チエさん83歳が収容先の病院で息を引き取りました。これで今回の食中毒事件での生存者は0人となりました。』 『続報です。滋賀県養護老人施設集団食中毒事件の診察に当たった医師・看護士12名が亡くなった患者と同様の症状を訴え、現在治療を受けております。それを受け、全員の検査及び関係者が立ち入った場所・自宅・施設の全ての消毒を行いました。』 『たった今速報が入りました。食中毒事件の原因は、変異した新種のウィルスである事が保健所と大学病院の調査で明らかになりました。』 『またも悲報です。先月の事件で治療に当たっていた医師の神埼誠さん42歳が昨夜ウィルス性の脳内出血で亡くなりました。なお、新種のウィルスは非常に感染力が強く、二次感染の恐れがあるとして付近の住民に感染防止のチラシを配るなど警戒を強めています。』 『WHO、世界保健機構が新種ウィルスを「ETIN(エティン)」と命名しました。ETINウィルスは接触感染や空気感染での感染力が非常に高く、空気中や水中でも長期間活動できる為、今後も更に感染は拡大すると見られており・・・。』 『ETINウィルス、ついに国内での死者が2000人を超えました。ETINウィルスは既に日本全国に感染は拡大しており、更にアジアの近隣諸国・ヨーロッパ・アメリカでも感染による死者が出ています。このままでは全世界に蔓延する恐れがあるとして、ETIN感染国に非常事態宣言が発令されました。」 『全世界でETINウィルス感染と思われる死者が5億人を超え、史上最悪のバイオハザードとなっております。空気・水・他の動物及び昆虫を媒介として広がり続け、もはやウィルスの侵入を防ぐ手立ては皆無に等しいとの見解です。』 『謎のETINウィルス、感染・発病するのは人間のみのようです。様々な動物実験が行われましたが、人間以外には感染力は無いとのこと。専門家の間では、人間に近い霊長類が感染しない理由を調べると共に・・・。』 『ETINによる死亡者の葬儀を行えない事態が全国的に起こっています。人手も減ってる上に物資も供給が途絶えており、今後を絶望視する人々が急増しています。我が局も既に半数以上がETINの犠牲となり、番組もこのニュースクリアの一本という緊急事態に陥っております。』 『ETIN、有効な特効薬は未だ開発できず足踏み状態となっております。有能な人材も次々と倒れ、残った研究者も研究を続けてますが、ETINは今までの薬剤では全く効果が見られず、新薬開発にも物資が足りないという絶望的な状況です。この事態を重く見て、政府は・・・。』 『ついに発電所が稼動不能となり、各地で停電・断水が起こっています。既に全世界の経済が麻痺状態にあり、生存者も1%を下回っている模様です。なお、このラジオ放送は予備発電を用いていますが、それも残り3日で使用不可能になると見られ・・・。」 暖かな日差し・・・周囲からは雀の囀りが聞こえてくる。 腕時計に視線を移すと午前10時を指していた。 「ふわーぁ・・・よく寝たぁ・・・・。」 自室のカーテンを開けると澄み切った青空が出迎えてくれた。 「ねむ、顔洗ってこよっと。」 部屋から出ると一階にある洗面所へと降りていった。 その時、部屋のドアを閉める反動で棚から卒業アルバムが落下してしまった。 ”2003年度 私立高等学校 卒業アルバム 河本 麗” 洗面所といっても水道水が出るわけではない。 ペットボトルのミネラルウォーターをタオルに染み込ませると、それで顔を拭き始めた。 一通り顔を拭き終わると、今度は台所へと向かった。 冷蔵庫には見向きもせず、テーブルの横のビニール袋に入った缶詰を一缶取り出す。 麗「今日は鯖缶でいっかっ。」 電気もガスも使えないこの状況では生鮮食品は勿論の事、インスタントやカップの即席麺の調理すら容易にできない状況にあった。 もちろん庭で焚き火でもすればお湯くらいは沸かせるだろうが、寝起きからそれだけの事をする気力が麗には無かった。 麗「あとは〜野菜ジュースっと。」 缶詰だけではやはり栄養バランスが偏ってしまう配慮からか、意識的にこれらのジュースを飲むようにはしている。 手馴れた様子で缶切りで開封すると、中身を皿にも出さずに割り箸で直接食べ始めた。 もはやこの家に麗の行儀を指導できるような者は誰一人居なくなっていた。 黙々と鯖缶を頬張っていると、ガリガリッと窓を引っ掻く音が麗の耳に入る。 麗「ん?リリ、待ってなさい。食べ終わったら御飯あげるからっ!」 『リリ』と呼ばれた犬は窓越しにきゅーんと鳴くと小屋へと戻っていった。 鯖缶から大きな一切れを箸で摘み上げて口に放り込むと、テーブル横のダンボールを漁り始めた。 麗「ドッグフード、ドッグフード・・・やっば、あと一食分しか残ってないじゃん。」 残り一食分のドッグフードをリリ用のお皿に盛ると、窓を開けて地面に置いた。 リリは嬉しそうに駆け寄るとドッグフードにかぶりつき始めた。 麗「はぁ、そろそろ色々仕入れてこなきゃダメかな。」 野菜ジュースで鯖を喉の奥に押し込むと、棚からメモ帳とボールペンを取り出した。 そしてサラサラっとメモにドッグフードと書き込む。 麗「あと必要なのは〜・・・石鹸にー、お水、灯油、乾電池・・・。」 書き切れないくらい様々な日用品を書き込んでゆく。 麗「あー、もうっ!多すぎ、あとはお店で探せばいっかっ。」 メモをポケットに詰め込むと着の身着のまま外に飛び出していった。 外は異常なほど無音で、時々犬の鳴き声や鳥の囀りと風の音が聞こえるのみである。 麗は自宅の道路脇の車のドアを開けるとそのまま乗り込んだ。 車は真っ赤な軽自動車で、ところどころに凹みや擦った傷が残されている。 念の為にシートベルトを締めるとエンジンのキーを回した。 麗「今日は何処行こう?スーパーが一番品揃えいいかな?」 独り言のように呟いてギアチェンジをすると、スーパー方面へと車を発進させた。 信号や一方通行や一時停止も無視して暴走する麗の車。 実は麗は免許を持っていない。 しかし、既に近所に歩いている人間は居らず、スーパーまでの道のりは猫にしか遭遇しなかった。 道路では時々人間も見かける事は見かける。 勿論、倒れていて腐敗していたり、白骨化が進んでいる者だけしかいないが。 もはやこの世界には法律も裁く者も存在していなかった。 スーパーに到着すると店の入り口の前で車を止める。 わざわざ駐車場に入れる必要もないし、車に鍵をかける必要もない。 生きた人間に遭遇しないのだから、自然と麗も化粧も着替えもせず出歩くようになった。 車から降りると急いでマスクを二重に装着する。 何故なら既に店内は・・・。 麗「相変わらず臭い・・・。」 そこら中の生鮮食品や倒れた人間だったものが腐敗臭を発しているのだ。 麗が最後に生きた人間に会ってから一ヶ月が過ぎたが、相変わらず外はどこも臭いが酷い。 最初の頃はそんな凄惨な現場に通りかかる度に吐いていたが、数日後には嫌でも慣れた。 意外にも腐敗物に蝿や蛆などは沸いていない。 理由は不明だが、ETINにやられた人はETINしか分解(腐敗)しないらしいのだ。 本能的に危険を察知しているのか、他の生物はETINで死んだ死体を食べないらしい。 仮に他の生物が死体を食べるようだと、蝿が大量発生して凄い事になっていただろう。 店に設置されたカートに買い物籠を入れると、必要物資をポイポイと投げ入れてゆく。 当たり前だが財布も持ってきてはいない。 払う相手も存在しない以上、使える日用品や食品を勝手に持ち帰るだけ。 腐敗・劣化が進み難い日用品はいくらでも選び放題である。 しかし、食品はそうはいかない。 加工品ですら、一週間もすれば大半のものは食用不能な状態になっていた。 問題なく食べられるのは、乾物や缶詰、それと一部のレトルトやインスタントのもの。 飲み物やお菓子類も割と大丈夫だが、湿気や温度の影響を受けやすいものはアウトである。 幸い近所にはこれらのお店がいくつも点在している。 なので、暫くは品に困る事は無さそうだ。 けれどそれにも品質保持期限には限界がある。 もし、仮に全ての食料が食べれない状態に腐敗してしまったら自力で調達するしかないのだ。 そんな事を考えると言い知れぬ不安に駆られてしまう。 麗「ふぅ・・・これくらいあればいいでしょ。」 カートをそのまま店外に持ち出すと、車の後部座席にどんどん積み込んでゆく。 毎回悪い事をしている気分になるが、生きる為に仕方ないと自分に言い聞かせて無理矢理納得をする。 何往復しかして必要な品を全て詰め込むと車を自宅へと走らせた。 運転技術は試行錯誤の上で独学で覚えた。 もちろん、壁に擦ったり障害物にぶつけたりの繰り返しの荒っぽいやり方だが。 生きた教習員がいないのだから車を扱うにはこうするしかない。 燃料に関しては、周囲の車に入ってるものをポンプで拝借してなんとか賄っている。 案外、鍵が付けっぱなしの車が多いのだ。 ・・・大抵は中に死体もあるがいちいち気にしてられない。 自宅に到着すると鍵も抜かずに車から降りると、生活必需品を次々と運び出す。 庭で麗の帰りを待っていたリリが駆け足で飛びついてくる。 麗「こらっ!散歩は荷物を置いてからだからね?」 ごそごそと荷物の中から犬用ボーンガムを取り出すとぽいっと庭の奥へと投げた。 反射的にガムを取りに行くリリを見送るとその隙に玄関へと荷物を運ぶのだった。 |